PARK Manu(Artistic Director of BUSAN Biennale2006, Curator), 'art INCULTURE' ,2008.09

art magazine 'art INCULTURE' September 2008 Vol.117, KOREA   

Review of KIM insook solo exhibithion 'sweet hours' in Gwangju Museum of art 

text: PARK ManuArtistic Director of BUSAN Biennale2006 & Independent Curator, Critic    

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金仁淑展<sweet hours> in 光州市立美術館 レビュー

 

文: パク・マンウ(釜山ビエンナーレ2006総監督・独立キュレーター、美術評論家)

 

金仁淑の<sweet hours>展を観ながら、北大阪にある『ウリハッキョ(朝鮮学校)』の子供たちと在日同胞のことだけを考えた。勿論子供たちの澄んだ瞳や笑顔、また作家の暖かい視線は、長い間余韻として残った。しかしその後作家と会い彼女の前作である<ニムにささげる手紙>(2004)を観た後、私の頭は『ウリハッキョ』のかわりに『金仁淑』のイメージだけでいっぱいになった。私は金仁淑と、彼女が入院している病院で初めて会い、化粧気の無い顔に入院服を着た彼女と対話し、彼女の肉声に慣れていった。在日同胞特有の抑揚、彼女だけの音色、そして去る6年間のソウル生活で身につけたソウル弁が間あいだに飛び出した。そして、彼女が『スチール映像』と呼ぶ<ニムにささげる手紙>のスライド映像バージョンで彼女の『録音された』声と唄声を初めて聞いた。<ニムにささげる手紙>では既に『過去の自分』を記録した彼女のセルフポートレートを、またインターネット上にある展覧会場や受賞式場で撮られた彼女の写真をみた。そうして、<ニムにささげる手紙>が彼女の自叙伝的な成長小説だとすると、<sweet hours>はその鏡の二面である事を知ったのである。

 

小説家シン・ギョンスクは小説<離れ部屋>の中で、書くことは「自分を削って食べること」だという。だから「一度にあまり削りすぎると自分が痛い」と記している。金仁淑にも自身の写真を通して簡単に『自我のアイデンティティー』探しという主題意識を込めるには、その実践的な重みがあまりに辛そうに見える。金仁淑は『朝鮮籍』を持つ父と日本人の母の間に生まれ、2000年に父、弟と共に韓国籍を取得し、ソウルと大阪を往来しながら写真作業を行う在日三世の作家だからである。しかし、この特異な家族史が『家族小説』になり『個人神話』になるためには、何よりも金仁淑自身が選択してきた生き方でなければ不可能であった。歳は若いが今に至るまで何も考えずに生きようとせず、自身の生き方に対する情熱と悩みが片時も彼女を避けて通る事は無かった。彼女にとって写真は運命的な出逢いであり、カメラは自分の運命に対して『適切な距離』を置く方法を少しずつ暗示してくれた。

 

<ニムにささげる手紙>には日本人の差別的な視線とまた違った、ソウルでの他人の視線が垣間見られる。家族のルーツを探し祖父の故郷である済州島、南北分断の象徴である板門店にも訪れるが、結局韓国でまた異邦人として残った彼女は中国・延辺を訪ね『朝鮮、韓国、そして日本』が混在する、彼女にさえ見慣れぬ地で自身を解き放つ。 呻吟する自我を開放するため辺境に目を向け、自我を脱中心化し、分散させる。<sweet hours>はこのように<ニムにささげる手紙>と鏡の二面関係、もしくは互いに向かい合う鏡の関係をなす。

 

光州市立美術館で展示された<sweet hours>50点余の作品と『スチール映像』1点にはどこを見ても先生の姿や先生の授業を聞く子供たちの姿は見られない。作品の中で意図的に先生が不在であることは、彼女が『ウリハッキョ』を撮りながら既存の全ての固定観念や先入観を排除し、『子供たちだけの学校』をみせるために作家が設定した象徴的構図に起因する。金仁淑にとって写真は我々を(彼女を)全てのcliché(陳腐な常套文句)やステレオタイプから自由にする実践的な媒体である。モノクロのドキュメンタリー写真の代わりにカラー写真を択び、ポートレートとスナップ写真の間の区分も重要ではない。子供たちがカメラを見ても自己演出せず自然な視線を誘導するための道具として、作家はコンパクトカメラを好んで使うという。写真の中の子供たちは遊んだり、いたずらしたり、掃除をして学級を美化する。運動会の準備をし、朝鮮舞踊を踊り、体育の時間前に休んでいたりもする。『ウリハッキョ』には訓育と学業成果のための多くの標語とスローガンがある。その他にも私たちに根本的な固定観念とclichéを植えつける多くの死角の枠が存在する。机、黒板、ガラス窓、肖像が、教卓、ロッカー、そしてノートもそうである。それらが皆そろって『朝鮮学校』、『在日同胞』、『民族』、『同族』、そして『朝鮮語』などの概念に奉仕する子供たちのアイデンティティーを画一化し、標準化する装置である。彼らの同じランドセル、制服、体操服、上履き、ヘアースタイル、ポーズ、ジェスチャー、視線の中から、金仁淑は私たちの先入観と文化的コードを取り去り、私たちに北大阪初中級学校の中で育つヒサ、ヨンジュン、クンミ、ミナ、ミヒに逢わせてくれる。子供たちの肖像は他のスナップ写真より少し大きくプリントされていた。作家の過ぎ去った自我の瞬間がそこに透写されており、よって、彼らの肖像を撮ることは自身の通過儀礼を済ませる行為でもある。

 

子供たちの成長過程を見守る場所である『ウリハッキョ』は金仁淑に消え行く『希望の巣』であり、避難と慰安の場所なのである。運動会のシーンでさえも父兄たちの姿が見あたらない。先生の不在と同様<sweet hours>には家族のイメージが徹底的に排除されていた。

学友と共に過ごした追憶の空間をかみ締めたい作家の切実な欲望の背後には、家族小説のストーリーが隠されているからである。おそらく、だから、私たちが決して『sweet』ではないこの展覧会を通じて『人間社会の多様性について少しでも共感することができたなら、作家の霊魂にとって大きな慰安になるであろう。

 

★'sweet hours' exhibition view, GwangJu Museum of art - cilck 

 

 

 

 

★the source★

 

art INCULTURE : www.artinculture.kr